毎月21日に開催している「PEACE DAY monthly 21」
32回目のテーマは、「核兵器のない社会をデザインする」
世界で唯一の戦争被爆国である日本。今回は、核兵器廃絶のために高校時代から活動をし続けるKNOW NUKES TOKYO 代表の中村涼香さんをお招きしました。8月15日の終戦記念日を前に、被爆3世として長崎県に生まれた彼女のアクションや想いについて伺いました。
中村 涼香さん(KNOW NUKES TOKYO 代表)
2000年長崎県生まれ、24歳。上智大学在学。祖母が被爆者の被爆3世。高校時代から被爆地長崎を拠点に核兵器廃絶を求める平和活動に参加。大学進学と同時に上京後、「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」キャンペナーとして核兵器禁止条約を推進。日本の全国会議員の核兵器禁止条約への立場を可視化する議員ウォッチのリサーチャーとして活動しながら、被爆地の外でのアクションを更に広めるために東京を拠点とした「KNOW NUKES TOKYO」を設立、共同代表を務める。
<中村>
私は被爆3世として活動していますが、祖母から当時の話を直接聞くことはなかったですし、長崎県では被爆3世ということが特別なことではありませんでした。
長崎にいた頃、中高一貫の女子校に通い「平和学習部」に所属していました。当時の私は海外に行ってみたいという憧れがあり、入部した理由も不純で、その部活動の大きな活動のひとつに、平和に関する署名活動を行い、それを国連に届けるというものでした。
しかし、被爆者の背中を見ているうちに、核兵器のない世界に貢献したいという思いがどんどん強くなり、その思いが変わらぬまま今日まで活動を続けてきています。
<中村>
大学進学をきっかけに上京し、被爆3世というアイデンティティを持つようになりました。長崎と東京とでは、原爆に対する意識が大きく違いました。長崎では連日ニュースで取り上げられていたのに対し、首都圏ではほとんどなく、報道の数の違いにとても驚きました。被爆3世ということが首都圏では秀でる存在だということを実感し、もっと若い世代が発信できる場所を作りたいと思いました。ただ、核兵器の問題は大学のたった4年間で到底解決できることではなく、卒業したらこの機会を失うのかと、やるせなさを感じていました。もっと考え続ける箱が欲しいという思いで、2021年に任意団体KNOW NUKES TOKYOを立ち上げ、今に至ります。
任意団体KNOW NUKES TOKYO
KNOW NUKES TOKYOは2017年にノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」とパートナーを結び、核兵器禁止条約を推進。国内外で発信を続ける。
<中村>
これまでの国際条約で、核兵器そのものを禁止する条約というものはありませんでした。それは、軍縮に関わる条約の中心を担っていたのは核を持っている国々だったからです。しかし、2017年に核兵器を持っていない国々が中心になって核兵器禁止条約を作り、各国のパートナー団体が自国の政府に対し訴え続けています。日本も核兵器禁止条約に加盟しておらず、私たちは日本のパートナー団体として、政府に対して日々働きかけを続けています。
<中村>
この理念をどうお金にしていくが、当面の私の課題です。まずは、社会課題を解決したい人たちが集う経済産業省の「ゼロイチ」という事業などに参加しています。ただ、ソーシャルビジネスになると、自分の想いから距離が遠のいていくような恐れも懸念しています。様々な企業に協賛のお願いに回っていますが、核兵器の問題となると難色を示されることが多いです。しかし、こういうところをブレイクスルーしていくことが、実験的なところも含め、可能にしていけたら面白い取り組みになるだろうと確信しています。
現在、一般社団法人unpeaceの立ち上げの準備をしています。
この名前に込めた想いは、世界が平和じゃないことを訴えたいためです。この団体が一日も早く不必要な社会になることを願って、現況を知らしめるために付けました。現在は主に、フリーマガジンを制作しています。先日、下北沢でポップアップも開催しました。安全保障の問題について、世論に触れる機会は多かったですが、Xなどでは様々な意見で過密しがちで、長崎にいた頃も政策的な面で団体同士がぶつかってしまうこともありました。平和を求めている人同士がメンタル面も含め、最も平和的に考えられるような、そういった空間を作りたいと思っています。現在は、このマガジンを長崎県内のカフェやホテルなどに置いていただいています。日本ではダークツーリズムというのはまだポピュラーではありませんが、身構えずに誰もが参加できる観光事業へも参入していきたいと考えています。
<中村>
8月を迎えるにあたり、広島や長崎に足を運べる人のみならず、もっと多くの人に原爆について知見を広げてもらいたい、若い世代の人にも刺さるものがつくりたいと思い、東京で「あたらしいげんばく展」というものを企画します。
原爆資料館に展示されている写真でさえ、原爆が投下された3~10日後に撮られているので、「投下直後はもっと凄惨な状態だった」「資料館でさえも、原爆の恐ろしさを伝えきれていない」と話される被爆者の方もいます。しかし、私が今回企画したものは、よりビジュアルが綺麗で、被爆者からすれば物足りないもの。核の脅威はこんなもんじゃないと言われるものです。それでも、若い世代にはショッキングなものであることは変わらないし、核兵器の問題から目を背けてしまう、障壁になっていると考えています。まずは、我々の世代の準備運動になるような場所を作りたいです。
「あたらしいげんばく展」
日時:2024/9/5(木)~8(日)
会場:東京大学 本郷キャンパス 中山未来ファクトリー
入場料:無料(詳細は、8/1 WEBサイトにて公開予定)
参加者の皆さんとゲストが対話するダイアログタイム。今回も様々な質問・意見が寄せられました。
――若いのに、資金的な不安があるのに、両足を踏み入れている。その強い想いはどこから?
<中村>
ビジネスとしての知識はまだまだありませんが、旗振り役がいないといけないと思っています。日本は資本主義でありながら、平和活動や社会貢献活動はボランティアで行うことこそが美徳であるみたいな風潮があります。しかし、自分のリソースにも限界がありますし、もっと多くの人が参加できないか?と考えた時、企業に入っていくことが必要だと考えました。いつか被爆者がいなくなるフェ―ズが必ずやってきます。その時にフルコミットできる時代を私が作れたら嬉しいと思います。
1990年頃、核軍縮が進み世界に7万発あった核が2万発まで減りました。しかし、逆に言うと平和に対するムーブメントが減っていきました。我々人間というのは、危機が間近に迫らないと危機感を持つのが難しいと思います。この危機感を共有する、的確なムーブメントを若い世代が士気を持つ必要があると思っています。
――これから行っていきたいことは?
<中村>
政策が動けるだけの世論を集めていきたいです。様々なルートを辿っても意思決定する人の決断が必要です。その時に有権者の意思というのが必要で、「どうやったら盛り上げられる?」「どんなムーブメントをしたらいいのか?」と日々考えています。まずは、今回の企画展示の来場者数の数字を出すことができます。安全保障の問題って身近なことから貢献できることはとても少ないし、ハードルが高いように感じます。なのでまずは、今回の展示を見に行く、などの気軽のステップを私がどんどん作りたいと思っています。
また、企業として雇用を創出できれば、平和活動に関連する人の母数を自然と増やせることに繋がりますので、そういうことも今後は考えていけたらと思います。
広島や長崎を訪れる機会がないとなかなか核兵器や原爆について考える機会はありませんでしたが、中村さんの活動や想いを聞き、被爆3世だからこそ考えるべきことではなく、誰しもが安全、平和について考えなければならない時代になっているのだと感じました。楽しみながら活動していたら、こんなにも続けてしまっていたと話す中村さん。そんな彼女が作る思いやりのある企画が楽しみになりました。