peace of words words of peace

不条理なことにこそ「赦す」という選択を

2024.06.01
成瀬久美

人は生きていると、時に理不尽なことや、大切にしていた人に裏切られる(ように感じられる)こと、天災に戦争、人災などさまざまな不条理に直面することがあります。

その際、生きていることが辛くなってしまったり、普段の自分には想像もつかなかった感情に苛まれたり、誰か・社会を恨んでしまったりするようなことがあるかもしれません。もっというと、それほど酷い状況に陥ると自分や誰かの命を軽視する傾向があり、だからこそ、ニュースになるような悲しい事件も起こるのでしょう。私を知る人は意外に思われるかもしれませんが、子供の頃からお人好しと言われ、普段は「平和主義・利他主義の人」と言われる私でも、人生経験を経ていく中で自分が試されていると思う局面に何度か直面し、時として“味わったこともないような感情”を抱くこともありました。中には時間をかけて癒している傷も、少なからず存在します。

逆説思考が「赦す」につながる

「赦す」ということは、そんな生易しいものではありません。

特に理不尽な仕打ちを受けた後や、不条理な状況に陥れば陥るほど、「赦す」という行為は完全な綺麗事にしか聞こえなくなることでしょう。戦争はその最たるもので、常に状況は複雑化し続け、負の感情・憎しみや復讐心が連鎖する仕組みになっています。

それでも、赦すことができるかどうか。
ポイントは「それでも」という逆説思考にあります。

イタリア共和国ウンブリア州にあるアッシジ(世界遺産)

 

私の大好きな格言の一つでアッシジの聖フランチェスコが唱える『平和の祈り』や、マザーテレサも追随したケント・M・キース博士『それでもなお、人を愛しなさい―人生の意味を見つけるための逆説の10カ条』はまさにその「赦す」ことを伝えてくれています。自分を見失いそうになった時には、是非何度も目にし、ゆっくりと深呼吸した上で口にしていただきたいです。

実際にカタルシス効果と言って、不安や不満など負の感情を口に出すと苦痛が緩和されて安心感を得られるという現象・状態がありますが、それと同様に前向きな言葉を口にすることは、言霊が自分に降り注いでくるかのように、己の状態を整えてくれます。

 

自分は平和の道具(存在)である、という意識

今回はそれぞれの一節ずつをご紹介します。

「慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。(フランチェスコの平和の祈り)」

「何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きなさい。(ケント・M・キース博士)」

上記の言葉は、誰か・社会・何かを赦すためのプロセスになります。また、自分以上に相手や何かに対して「なぜ、その状態が生まれているのか」と思考を張り巡らせるようになります。仮にどんなに相容れないような出来事があったとしても、誰かや何かへ共感しようとすることは、様々な氷の壁を溶かして物事が発展しやすくなり、それは、ある種の対話式平和解決法が暗黙的に為されているからだと私は思います。

繰り返しますが、もちろん、そんな簡単にまとめられない事象があるのは百も承知です。
「それでも」。いかなることがあっても、自分自身も、周囲のことも、社会のことも、諦めないこと。
皆の集合意識が世の中を創り上げていきます。
私たちという存在はいつでも“悪者”になる可能性を持っているからこそ、逆説思考によって平和の道具(存在)になることを意識し、そのことによって安寧の社会へ少しでも誘うことができますように。